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心理学のミステリーを追体験してみよう?


こんにちは。スタッフの村田です。
 

 

 皆さんは行動療法や認知療法あるいは、認知行動療法という言葉を聞いたことがありますか?いわゆるEBM(Evidence-Based Medicine)と呼ばれる科学的に実証することを念頭においた心理療法になります。その歴史はAlbert B.と呼ばれるアルバート坊やの研究をしたワトソンが立ち上げた行動主義の流れをくみます。

アルバート坊やの研究

 ワトソンやアルバート坊やは知らない方は多いと思いますので簡単に説明をすると、一般的に赤ちゃんは白ネズミを見せただけでは泣くといった恐怖反応を示さないのですが、大きな音には泣くといった恐怖反応を示します。

 そこで、白ネズミを見せながら大きな音で泣かせる(恐怖反応を引き出す)ことで、白ネズミをみただけでも泣く(恐怖反応を示す)ようになるという研究です。

 また、ワトソンの研究では、例えば、サンタクロースの髭のように、ネズミだけでなく白くてふさふさした他のものにも泣く(恐怖反応を示す)ようになることが分かっています。この研究に参加したのがアルバート坊やになります。いわゆる条件付けと呼ばれるものです。

 

 余談ですが、個人的には学生時代にこの話を知って、研究としては面白いことをする先生だなぁとは思う一方で、倫理的にダメでしょと思ったものです。ちなみに、今は研究の倫理的観点が非常に厳しく設定されているので、研究に協力して下さった方が不利益を被らないことを含めて、倫理的に、その研究を行ってもよいか?との確認をするシステムがしっかりとしていますし、研究に協力してもしなくても不利益を被ることはなく、研究協力する自由、しない自由が確立されていますので安心して下さい。

 

 さて、話をアルバート坊やに戻しますが、アルバート坊やは心理学を学ぶ人は知らない人がいないくらい有名な赤ちゃんなのですが、彼について知っている人は少なく、果たして誰だったのか、そして実験後どうなったのかは、言ってみれば心理学のミステリーとされています。

 今日は、そんなミステリーを解き明かそうとした人達のお話をその論文からご紹介したいと思います。

 

pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 

アルバートの生年月日は?

 さて、アルバート坊やのその後を探るにあたって、著者たちはワトソンの研究資料からさぐり始めます。

 すると、研究映像からアルバート坊やはどうやら白人であること、母親はジョンズ・ホプキンス大学構内の小児科施設に在籍している乳母であることが分かります。

 また、研究は、アルバート坊やが、生後8ヶ月26日、11ヶ月3日、11ヶ月10日、11ヶ月15日、11ヶ月20日、12ヶ月21日に行われていること、研究時期は1919年から1920年であることが明らかになります。作者たちはそこから逆算することで、生年月日が1919年3月2日から3月16日の間であることを突き止めます。

 ところが、ここで一つの問題が起きます。アルバート坊やの論文が雑誌に掲載され、世に出たのは記録上1920年2月号になるのですが、アルバート坊やの生年月日が1919年3月2日から3月16日の間であるとすると、生後12ヶ月21日の研究は1920年3月23日から4月6日の間に行われたことになるので矛盾が生じます

 ワトソンの記録が正しいのであれば、生年月日が誤っている可能性は低いと考えたためか、作者たちは雑誌の発行時期の確認を始めます。

 そのなかで、この雑誌、第一次世界大戦のために1917年から発刊中断されていたことが分かります。作者達は再開時期を探りますが、当時は紙文化なので、再刊号の印字を見ても古すぎて1920年8月とも1921年とも判断がつかなかったようです。

 とはいえ、論文掲載には査読と呼ばれる論文を掲載する前に、その論文についてディスカッションをして修正すると言う、それなりに時間がかかる作業があるので、仮に1920年8月であったとしても、掲載には間に合わなかったのでは?と思うのですが、作者たちは、ワトソンが投稿した雑誌はワトソンが立ち上げた雑誌であることや、査読をされた形跡が記録上ないので、査読の過程がなく最短で掲載されたのでは?と推測しています。

 そのため、著者たちは、生年月日は1919年3月2日から3月16日の間で問題ないと考えます。

 

アルバートの母親は?

 そこで、著者たちは、アルバート坊やの出自について調べ始めます。まずは、ワトソンの記録から探るのですが、ワトソンは記録を残していなかったので、この線からたどることは出来ませんでした。

 そこで、病気の一つでもしているだろうから、病院に記録が残っているのでは?と、病院記録をあたりますがこちらにも記録がなく行き止まります。

 ここで途方に暮れていたかはわかりませんが、著者たちは、研究が行われた年である1920年は国勢調査が実施されていたことを思い出し、そこから探れるのでは?と探り始めます。ところが、その当時の国勢調査は今ほど厳密ではなかったようで、病院に居住しているスタッフは一律「ジョンホプキンス病院に住んでいる人」と記載されていて、アルバート坊やの名前は見つかりませんでした。さらに、当時は乳母の地位が低かったためか、職業欄への記載がなく、ここからも調べられなかったようです。

 しかし、乳母に含められるであろう職業を調べ「養母」と記載されている「パール・バーガー(Pearl Barger)」「エセル・カーター(Ethel Carter)」「アルビラ・メリット(Arvilla Merritte)」の三名を探り当てます。そこで、著者たちは彼女たちが1919年から1920年の冬に授乳をしていたかを調べます。

 そのうち、エセル・カーターはブラックだったので、恐らく違うだろうと除外され、残りの二人に絞ります。そして、コーカサス女性かつ、姓が「B」と最有力のパール・バーガーについて調べますが、いくら調べても彼女がその時期に乳母として活動していた証拠は見つかりませんでした。

 そこで、残るアルビラ・メリットについて調べていきます。すると、彼女は1919年3月9日にジョンズ・ホプキンスで、ウィリアム・メリットと言う男性との間にコーカサス男児を設け、生活を送っていたとの記録がみつかります。ただし、夫であるウィリアムについての情報が出てきません。これに対して、著者たちは、1920年代当時は、未婚の母に対する周囲の目はかなり厳しかったこともあるので、身を守るためにも既婚であることを装っていたのでは?と予想し、アルビラ・メリットがアルバート坊やと関係していると考え、彼女の出生証明書から、アルビラの旧姓がアイアンズ(Irons)であることを探り当て、アルビラの孫とコンタクトを取ります。そして、孫であり著者の一人でもあるゲーリー・アイアンズ(Gary Irons)から、アルビラが、1919年3月9日にダグラス・メリットと言うコーカサス男児を出産したことを聴きます。これは著者たちが考えていた”男性””コーカサス””3月2日から3月16日の間に出生”という3つの条件を満たしていましたが、名前が一致しないことが明らかになります。そこで、作者たちはアルバートは実名なのか?と考えます。

 

アルバートは実名なのか?

 まず、作者たちはアルバートは実名である可能性から探っていきます。その理由は二つあり、一つが、当時の個人情報保護のゆるさにあります。今ではあり得なくて驚くべきことですが、1920年当時は、いわゆる個人情報保護が義務化されていなかったんです。理由の二つめは、アルバートがファースネームであることです。ワトソンは多くの研究をしているので、多くの赤ちゃんに研究の参加を求めているのですが、その中でアルバートだけが唯一ファースネームが使われているためです。

 とはいえ、これらに関しては、著者達自身も守秘義務が確立されていなかったといって、守秘義務について検討してないとは言い切れないし、さすがにその当時でも実名を使っていたとしたら非難されていたかも知れないけれど、非難されている記録がないことから実名ではないのでは?と考えたようです。

 また、それ以外の理由として、ワトソンが名前にまで関心がなかった説、アルビラが個人情報をさらしたくなかった説など、作者達は色々と考えます。が、今ひとつ決め手がなかったようです。

 そこで、著者達は、アルバートは仮名であると仮定して、どうしてアルバートにしたのだろう?というところから考え始めます。そこで、ワトソン自身に着目します。というのも、ワトソンの名前はジョン・ブローダス・ワトソン(John Broadus Watson)と言うのですが、これは著名なバプティスト派の牧師ジョン・アルバート・ブローダス(John Albert Broadus)にちなんでジョン・ブローダスと名付けられたそうなのです。また、ワトソン自身も子どもにウィリアムとジェームズと名付けるのですが、偶然か意図的か定かとなっていませんが、「ウィリアム・ジェームズ」は有名な心理学者の名前となります。また、ワトソンは先人の心理学者を尊敬していたそうなので、名前や尊敬の対象について考えることは特別なことではなかったのでは?作者たちはと予想します。

 そこで、お気づきかも知れませんが、ワトソンの名前の由来とされている牧師ジョン・アルバート・ブローダスをよく見ると、アルバート・ブローダスつまり、記録として残っているアルバート坊や名前の手がかりである”Albert B.”と同じアルバート・Bが含まれています。

 とはいえ、この仮説を裏付ける記録は出てこなかったようです。

 

アルバートの母親はどのような人だったのか?

 そこで、著者たちはアルビラの人生を見つめます。

 アルビラは1898年にニュージャージー州で、ジョン・アイアンズとリジー・アイアンズ夫妻の8人きょうだいの末っ子として生まれます。ジョンは大工で画家、リジーは教会のピアニストとして活躍しており、アルビラは、気性は荒いけれども魅力的な少女だったようです。その後の詳細な生い立ちには触れられていませんが、そのような家庭の中で育ったアルビラは、父親は不明なようですが1915年にモーリスを出産します。しかし、その後1918年から1919年の初頭にかけて、モーリスを祖父母に預けてボルチモアに引っ越したようです。

 その後、1919年3月にダグラスを出産。1920年代初頭にはマウントエアリーに引っ越して、農夫のレイモンド夫妻の元で働いていたようです。残念なことに、お世話になったレイモンド夫人は1924年に髄膜炎で倒れ同年無くなったようですが、アルビラ自身は、その後、1926年にウィルバー・フッドと結婚し、娘グウェンドリンを設けたようです。その後、1945年頃に離婚をしたようですが、1988年89歳でなくなるまで元気に過ごしていたそうです。ただ、理由は分かりませんが、グウェンドリンにはダグラスのこと伝えていなかったようです。グウェンドリンはアルビラの葬儀の準備の時にダグラスの写真をみつけ、きょうだいにダグラスがいることを初めて知り驚いたそうです。

 そして、著者たちはダグラスの家系図を手に入れます。整理するために家系図を載せますね。

 

 

ダグラスはアルバートなのか?

 覚えている方もいるかも知れませんが、ここで思い出して頂きたいのは、冒頭でお話した通り、研究映像としてアルバートの映像は残っているのです。そう、皆さんも考えたかもしれませんが、写真にあるダグラスと映像にあるアルバートが一致すれば、アルバート坊やはダグラスになります。

 私達と同じように、作者たちも写真と映像の比較作業にとりかかります。しかし、残念なことにそこは1920年代の技術なので映像の鮮明性が今とは異なり判定が出来なかったそうです(映像の方はWikipediaにあるので、ご興味のある方は、この記事の終わりにリンクを張りますので見てみて下さい)。

 また、判定を難しくしたもう一つの要因が、写真に写っているダグラスの年齢が分からないことにありました。と言うのも、乳児の顔の特徴は急速に変化するので、年齢が違うと同一人物かどうかを判断するのは極めて難しくなるようなのです。そのため、著者たちを含め当時の有識者を悩ませたようです。言われてみれば納得の理由ですね。

 さて、それでは、アルバートはダグラスではないのか?だとするとアルバート坊やは誰なの?という気持ちになります。

 ここで著者たちは、こう考えます。映像と写真を見比べてもアルバート=ダグラスとは断定はできないけれども否定も出来ない。つまり、映像と写真ではなんとも言えない。それなら、これまでに集めた情報から総合的に判断して、全ての情報にダグラスが当てはまればアルバート=ダグラスである可能性は非常に高いと結論づけられると考え、これまでの情報を比較します。

 すると、ダグラスは全てに合致するので、さすがに全てに合致することは、まずあり得ないと考えてダグラス・メリット=アルバート坊やであると結論づけます。

 

アルバートのその後

さて、その後のアルバート坊=ダグラス・メリットがどうしていたかと言うと、彼は1925年に亡くなっています。つまり、7年で生涯を閉じています。その理由は死亡証明書から水頭症を発症しているためと作者たちは考えます。後天性の水頭症は脳炎、髄膜炎、脳腫瘍などの病気によって引き起こされることが多いそうです。思い出して頂きたいのですが、アルビラがお世話になっていたダグラス夫妻の夫人は髄膜炎で亡くなっています。そのため、作者たちは、アルバートは夫人から髄膜炎を貰い、水頭症となって亡くなったのではないかと予想し、アルバート坊や=ダグラスであるとの考えをさらに強めています。

 また、亡くなるまでに、アルバート坊やの研究によるものと思われる症状を示すことはなかったようです。

 

 いかがでしたでしょうか?

 個人的には、やや強引なのでは?状況証拠なのでは?と思うところもあり、少しもやっとする結論ではありました。

 とはいえ、ダグラス=アルバート坊やとするのであれば、研究に参加したためにアルバート坊やが、大きな支障を感じながら生活を送られていたのでは?という点は、心理士として最も気になっていたことの一つでしたので、ワトソンが、アルバート坊やに学習させたものを、再学習させて元に戻した(専門的には消去手続きと言います)のかもしれませんが、アルバート坊やが研究のためにその後の人生を犠牲にされていなかったことに若干の安堵を覚えます。

 また、研究倫理や研究方法として、改めて考えさられるところはありますが、著者たちが言う様に、アルバート坊やの研究があるからこそ、行動療法や認知療法で用いられる科学的に実証された心理療法を皆さんに提供できるものと考えています。

 皆さんはどのような感想を持たれたでしょうか?

  

それでは、また 

 

本日参考にしてものは以下になります

 

https://psycnet.apa.org/record/2009-18110-004

 

ja.wikipedia.org

 

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